200年超の伝統を大切に、
新たな道を切り拓く
矢野酒造の挑戦
矢野酒造 [鹿島市大字高津原]
- INTRODUCTION
- 酒処として知られる佐賀県鹿島市の長崎街道沿いに、200年以上の歴史を刻む酒蔵があります。矢野酒造で杜氏を務めるのは、9代目・矢野元英さん。脈々と受け継がれてきた酒づくりの精神を守りながら、静かに、そして熱く新たな挑戦を続けています。その姿に迫りました。
キリッと涼やか。地元に愛される味わい
矢野酒造の創業は寛政8(1796)年にさかのぼります。その長い歴史を支えてきたのは、「地元に根差し、地元の人に愛される酒を造る」という一貫した姿勢でした。
佐賀県は全体的に甘口の酒が多い傾向にありますが、矢野酒造の酒はその中でもやや辛口寄り。今も「甘すぎず、透明感と涼やかさのある味わい」を大切にしながら、酒造りを続けています。
これは意図的にそうしているというより、蔵そのものが持つ個性、いわば“蔵癖”による部分が大きいと言えます。冷蔵設備や機械がなかった時代、酒の味わいを決めていたのは、蔵の環境そのものでした。気候や麹室(こうじむろ)の構造、水の質など、さまざまな要素が重なり合い、結果として蔵ごとの個性が育まれていきます。
たとえば、海に近い地域の井戸水にはわずかに塩分が含まれることがありますが、矢野酒造が使用するのは多良岳からの伏流水。硬水寄りの軟水で、鹿島市内でも辛口の酒を造りやすいという特徴があります。こうした自然の条件が、矢野酒造ならではの味わいを生み出しているのです。
矢野酒造のブランドは、大きく分けて2つあります。「竹の園(たけのその)」は、古くから地元で親しまれてきた銘柄です。大正天皇の即位という慶事にあたり、皇族を表す言葉「竹の園生(たけのそのう)」から名をいただいて誕生しました。純米酒や純米大吟醸などを展開しており、矢野酒造の中では比較的甘口のタイプにあたります。
もう一つの「蔵心(くらごころ)」は、私の父が立ち上げたブランドです。昭和16年頃、戦時下の米不足により日本酒にアルコール添加が始まり、量は確保できた一方で、風味のあり方は少しずつ変化していきました。そこで父は原点に立ち返り、水と米だけの酒を造ろうと「純米酒宣言」を掲げ、以後は純米酒を中心に据えてきました。酵母には“佐賀葉隠れ酵母”を使い、佐賀らしさにもこだわっています。
毎年が1年生。酒づくりにゴールはない
近年は温暖化の影響や台風などの自然災害が年々深刻化しており、鹿島や佐賀県産の酒米だけでは必要な量をまかないきれなくなってきています。そこで私たちは将来を見据え、北海道や兵庫県の山田錦、岡山県の雄町など、全国の産地から好適米を選んで仕入れる取り組みも始めました。酒米の種類が増えることで、酒のバリエーションも広がります。それは造り手としても、飲み手としても、純粋に楽しいことだと感じています。
その一方で、鹿島産の山田錦を使った純米大吟醸や純米吟醸も大切に造り続けています。鹿島の米はふくよかな味わいが出やすい反面、非常に繊細で、わずかな加減で味が変わります。まさに杜氏の腕が試される米です。その特性を生かすには、仕込みの工程での細やかな観察と的確な判断が欠かせません。
昔はもろみの味や香り、見た目や音といった“人の五感”で発酵の状態を見極めていました。現在は分析機器があるため、ある程度は数値で判断できます。私たちも毎年データを記録し、特に9月以降の気温に注目しています。残暑が長引く年と、9月から一気に涼しくなる年とでは、米の溶け方がまったく異なるからです。
過去のデータやその年の方針を踏まえつつ、実際に造ってみて結果を見て、翌年に調整していく、それが基本の流れです。どんなに機械化が進んでも、最終的にはやはり人の経験と勘がものを言います。数値で目安はつけられても、最終判断は杜氏の手と目に委ねられます。米の状態や気候を見極め、その年に合った水加減などを細かく調整する必要があるのです。毎年、条件も米も違うため、本当に「毎年が1年生」。だからこそ、酒造りには大きなやりがいがあります。
“楽しさ”が原動力。この蔵を未来へつないでいく
酒造りは、昔と比べて大きく変わりました。これからも変わり続けなければ、生き残れないと思います。昔ながらの造りが強みになるなら守り抜く。一方で、アルコール離れが進む今だからこそ受け入れられる新しい酒を考えることも必要です。
自分たちが心から「うまい」と思える酒を、自信をもって届けること。時代や人の好みに寄り添い続けること。やるべきことも、挑戦できることも、まだまだ尽きません。酒造りに終わりはないのです。
私たちが大切にしていることの一つが“直感”です。酵母や種麹、仕込み配合を変えることもあれば「ピンときたから、今年はこれでいこう」と決めることもあります。気候や原料の状態、蔵人たちの「今年はこんな味を造りたい」という思いに応じて自由度の高い酒造りをする、それもまた矢野酒造らしさです。
一方で、この蔵の環境やタンク、そして杜氏である私自身にも「矢野のDNA」が染みついています。どんなに斬新なことを試みても、最終的には「やっぱり矢野さんの酒だね」と言われる理由のひとつです。確固たる伝統があるからこそ、安心して新しい道を切り拓けるのです。
近年は酒蔵同士の交流も活発です。かつては内部事情を外に出さない文化がありましたが、今は杜氏同士が意見を交わし、互いに刺激を受けながら佐賀の酒、そして日本酒全体のレベルを底上げしようという意識が広がっています。世界に日本酒を届ける今こそ、力を合わせて学び合い、それぞれの個性を大切にしながら成長していく時代を迎えていると感じます。
酒造りは、決して大きく儲かる仕事ではありません。米の価格は上がり、古い蔵ゆえに建物や設備の維持管理だけでも大変です。父の代にも、何度も辞めようかと考えたことがあったはずです。それでも続けてこられたのは、きっと“造る楽しさ”があったからでしょう。
真心を込めて造った酒を、誰かが「おいしい」と言ってくれる、それほど幸せなことはありません。その喜びを飲む人の豊かさへとつなげていくことが、矢野酒造のミッションです。100年、200年先へとこの蔵をつないでいくためにも“楽しさ”を原動力にして酒造りを続けていきたいと考えています。
- 矢野酒造
- 寛政8年(1796年)創業、佐賀県鹿島市に蔵を構える老舗酒蔵。母屋は国の有形文化財に登録されている。代表銘柄は「竹の園」と「肥前蔵心」。平成15年に「純米酒宣言」を掲げ、米と水だけで造る酒に注力してきた。その味わいは、IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)をはじめ、国内外の数々のアワードで高く評価されている。