ポルトガルから伝わり
佐賀で親しまれる 北島の丸芳露
株式会社北島 (丸芳露本舗 北島) [佐賀市白山]
- INTRODUCTION
- 佐賀の城下町に、受け継がれてきた菓子づくりがあります。創業は元禄9(1696)年。丸い素朴な焼き菓子「丸芳露(まるぼうろ)」で知られる北島は、佐賀の風土と人の営みの中で、その味を磨いてきました。現在も職人たちが、長い歴史によって積み重ねられてきた丸芳露の「基本」と、そこに息づく人の仕事をつなぎ、守り続けています。
激動の時代を経て築いた、商いの原点
私どもの初代は、現在の小城市牛津町で農業をしていたと伝わっています。その後二代目が、父である初代を亡くしたあと22歳で佐賀の城下町へ出て店を構えました。場所は、現在の本店がある佐賀市白山より西方、長崎街道沿いの中町、現在の白山1丁目の一角です。そこで始めたのが、数珠屋でした。
当時の人たちにとって、お寺をお参りすることは家族の大切な行事だったようです。季節ごとに人が集まる寺のそばで、品質を大事に念珠を一つひとつ手づくりしてお渡しする。そうした姿勢が、私どもの商いの原点にあります。
やがて店には「次は呉服が欲しい」「日用品も頼めないか」といった声が集まるようになります。お客様の声に応えながら、小間物や荒物へと扱いを広げ、四代目になる頃には当時の鍋島藩にお納めすることも増えていました。信頼いただく皆様にお応えしているうちに、私どもは次第に“商社”のような役割を担うようになっていきます。
しかし幕末から明治にかけて、藩を中心として成り立っていた社会の仕組みが大きく変わりました。それまで前提としていた取引や役割が通用しなくなり、私どもも家業のあり方そのものを見直す必要に迫られます。
そんな時代背景の中で、長崎貿易に携わったご縁から出会った「砂糖」という素材が次の道を示してくれました。南蛮菓子の製法を伝えておられた由緒ある横尾家から八代目と九代目が製法を教わり、ここから、私どもの菓子づくりが始まりました。
「歯が立たんごと、堅か」から生まれた工夫
八代目の八郎と九代目の安次郎の親子は横尾家の教えをもとに菓子を焼き上げ、それを手に、周囲の店を一軒一軒挨拶して周ったそうです。
「これから菓子屋になります。よろしくお願いいたします」
すると返ってきたのは「ああ、いい香りがしよったね」という好意的な反応。しかし、実際に菓子を口にした人からかけられたのは、思いがけない言葉でした。
「美味しかばってん、堅か」
「八郎さんのように、堅か」生真面目過ぎることのあった八郎と重ねた反応が返ってきたそうです。
教わった製法は忠実に再現できていたはずです。しかしその先には、大きな壁が立ちはだかっていました。
この時代「ボーロ」と呼ばれたこのお菓子は、17世紀の大航海時代に元々ポルトガル船員たちを見送る家族や友人たちが、おうちにある小麦粉と砂糖を塩水でこねて焼き締めた保存食で、長い航路を思う心から生み出されたものでした。それが良質の小麦の獲れる佐賀の地に根付き出していたのです。
ただそれは商品としてそのままご提供するには向いていなかったのです。
そこで諦めることなく、8代目と9代目の親子はお召し上がりになる方のことを思って、やわらかくて口あたりの良い丸芳露を追い求め、試行錯誤を重ねていきました。そうしてたどり着いたのが、今日の丸芳露へとつながる“三つの工夫”です。
まず、卵の配合を見直し、量を思い切って増やしました。次に着目したのが小麦粉です。「海の粉」「山の粉」の配合と呼ぶバランスにより、生育環境の異なる複数種類の小麦粉をブレンドすることで、味に深みを持たせました。現在も、その基本を守って数種類の小麦粉を独自にブレンドしています。三つ目の工夫が、ごま油を塗ることです。型抜きで成形する工程の中で油を塗り、おいしさを閉じ込める役割を持たせました。選んだのは太白ごま油です。菓子の風味を引き立てながら、自然に馴染みます。
材料を選ぶとき、ひとつひとつ良いものを選びながらも、「調和」させることもまた大切です。何か一つが突出していればよいのではなく、それぞれが過不足なく重なり合い、バランスよくまとまってこそ、一つの菓子としての完成度が高まると考えています。
基本は変えない。職人の経験に支えられる現場
今でも私どもの丸芳露づくりは、シンプルな原材料を、手仕事の感覚で扱う世界です。工程の一部は機械化していますが、それはお菓子の仕上がりに影響しない部分のみ。時代に合わせて変えるところは変える。一方で、守るべき基本は変えていません。
生地をこねる回数や混ぜ方、寝かせ方、揉み加減、型抜き、焼成、検品、包装まで、一つひとつの工程がつながっています。例えば、型抜きを担当する職人は、自分が抜いた生地がどのように焼き上がるのかを必ず確認します。オーブンに入る時の生地の直径は約4.2センチ。それが焼き上がると約8.5センチ。この広がり方は、その日の気温や湿度、原材料の状態によって微妙に変わります。真冬は締まりやすく、夏は流れやすい。暑さが続く年には、エアコンを入れていても、わずかな差が仕上がりに影響するのです。
ある冬の日、私が検品の現場に立ち会ったときのことです。流れてくる丸芳露の表面が、ある時点からほんのわずかに濃くなりました。おそらく一般の方が見ても気づかない程度の変化です。けれど、20年以上この仕事一筋の職人は、迷いなく言いました。
「日が昇って、しばらく時間が経ったからですね」
日が昇るにつれて地面がわずかに温まり、その変化を、私たち人間よりも先に丸芳露が感じ取るのだと言います。毎日、同じ菓子と向き合い続けているからこそ気づける、ごく小さな違い。その感覚の積み重ねが、私どもの菓子づくりを支えています。
幸せを届け、記憶に残る菓子であるために
贈り物として選んでいただくことの多い丸芳露。かつてのようなお中元やお歳暮といった慣習は、確かに減ってきていると感じます。ただ、それは人と人との結びつきが薄れたということではありません。今はむしろ、「今年お世話になったあの人に」「いま、この人に贈りたいものを」と、贈る理由がよりはっきりしています。義理ではなく、心理的に近い相手へ届けたいという気持ちが、かたちになっているのだと思います。
お菓子は、記憶と結びつくものです。景色を眺めながら一緒に食べた味を、何年か後に口にしたとき、その場にいた人や会話が、ふとよみがえることがあります。世界中のものが簡単に手に入る時代だからこそ、そうした記憶を託せる「地域の菓子」には、大切な役割があると感じています。
だから私どもは、「北島らしさ」を守ることを大切にしてきました。新商品づくりにおいても、その姿勢は変わりません。例えば、いちごさんを使った菓子も、完成までに数年をかけています。新しさを取り入れながらも、北島の延長線上にあること。その基本線だけは崩さないようにしています。
「丸芳露」という名に「芳」の字を当てているのも、その姿勢の表れです。明治時代、お客様から「この字がふさわしい」と言われたのが始まりでした。口溶けの良さや後味の良さを大切にしてきた菓子づくりを、受け止めてもらえた言葉だったのだと思います。
私は決して、330年続いてきた理由をひとことで語れる立場ではありません。特定の誰かが特別だったわけではなく、それぞれの人が自分の役割を黙々と果たしてきた積み重ねがあったと、私は捉えています。時代が変わり、設備が変わり、原材料も変わる。その中で「北島の丸芳露とは何か」を考え続ける人が、いつの時代にもいました。
「このお菓子をお召し上がりになる方が幸せであられますように」。最初にこの言葉を口にしたのは九代目です。ただ売るためではなく「喜んでもらえる菓子にしたい」という願いが、丸芳露の基本になりました。そうして今日も、誰かの心に届くことを願いながら、私たちは丸芳露を一つひとつ焼き上げ、送り出しています。
丸芳露本舗 北島の紹介はこちら
- 株式会社北島 (丸芳露本舗 北島)
- 元禄9年(1696年)創業。佐賀県佐賀市白山に本店を構える老舗菓子店。佐賀の郷土菓子として親しまれてきた「丸芳露(まるぼうろ)」を主力商品とし、佐賀県内および福岡県に計9店舗を展開する。現在も佐賀市内に製造拠点を置き、地域に根ざした菓子の製造・販売を行っている。